きみに読む物語*ニック・カサベテス
ジョン・カサヴェテスとジーナ・ローランズの息子、ニック・カサヴェテス監督作品「きみに読む物語」THE NOTEBOOKを見た。ジーナ・ローランズはSUPER!
野球の美学
青空と海に誘われて、沖縄に行ってみることにした。安易な気もするが、それが私。セテモア
沖縄ではプロ野球8球団が春季キャンプを行っている。子供の頃、野球がいやになった。私の大好きだった「パーマン」の放送時間に、父親がいつも野球中継を見ていたからだ。でも、舞台も映画も好きなのに、日本の文化だとも言われる野球を毛嫌いしてはいられない。広島と中日のキャンプに顔を出してみた。
赤ゴジラと呼ばれる、嶋選手。去年の年俸は700万だが、首位打者のタイトルをとり、4550万ほどに上がったという。素朴で、ガツガツしたいやらしさは全く感じなかった。2年目のジンクスなどとよくいわれるが、去年の成績に奢ることはなさそうで、今年も去年以上の努力を惜しまないのではないか。練習後は子供達のサインに丁寧に応じていた。
いつの間にか背後にいて、人の話を聞いている人がいる。落合監督はそんな人のように思う。無言で選手に近づいては、瞬きもせずに、ただ見つめている。バッターは、その眼差しにたじろぎつつもアピールをしている。でも自分を良く見せようとしても、彼には真の姿を見られてしまう気がする。感情ではなく実力で選手を見る。どんな世渡り上手も、落合監督には取り入ることはできないだろう。選手達は朝9時から6時近くまで練習をしている。高校野球だってそんなにしない。カープだってそんなにしない。彼らの強さが、まぐれでも、誤摩化しでも、魔法でもなく、練習による積み上げであると納得した。
スタンドで、風にあたりながらみる野球。緑の芝の上で、カープの赤ヘルが動き回る。井端が、荒木が、ウッズが、アレックスが、快音とともに打った白球は青空の中に消えていく。
太平洋序曲*宮本亜門
ニューヨークで宮本亜門さん演出の「太平洋序曲」(pacific overtures)が閉幕した。日本人初めてのブロードウェイの舞台演出で、初日の12月2日は「スタジオ54」の約1000席は満員だったそう。私もニューヨークくんだりまで足を運び、観てきた。初日は満員だったそうだが、2階席の半分以上は空いていた。アメリカでの評価は賛否両論だったよう。
話は、ペリー提督率いる黒船の来航によって、鎖国の夢を覚まされた日本という国が、そして日本人が、初めて出会った西洋にどのように向き合ったのかを描いたもの。こんなテーマを一体どのようにアメリカで演出するのか?私なら、同情してほしくはないけど、アメリカ人の気分を逆なでもしたくない。宮本亜門さんはどのようにこれを料理したかというと、まさに、同情とも反米ともならない演出。かなりアメリカを風刺はしているが、大きな主張は感じない。ただそれだけに、舞台に全くドラマを感じないし、誰かに焦点をあわせた話でもない。学校で歴史を習っているかのような気分だった。照明の使い方などの演出はよかったが、あまりに「語り」に頼っている気がした。出来事を言葉で表現するのならラジオでどうぞ。
ちょっと辛口なのは、決して宮本亜門さんの演出のためではないかもしれない。というのも、氷点下のマンハッタンで、劇場の中はサウナのような暑さだった。日本でも真冬に半袖を着て歩いているアメリカ人をたまに見るが、アメリカ人の温度感覚はどうしても理解できない。暑さの中では冷静に舞台を鑑賞でなかったかも。
諜報員*ボリス・バルネット
1947年、第二次世界大戦終了直後のソ連映画、ボリス・バルネット監督「諜報員」をアテネ・フランセで見てきました。諜報員とはスパイのことで、ロシアのスパイがドイツに潜入して任務を遂行するという、ソ連スパイアクション映画だった。
007シリーズのような色男のスムースなスパイ映画とは違い、もっと愛国心、裏切り、恫喝が続くスパイ映画。とはいえ、ドラマチックでスピーディーで壮大でもありハリウッド映画と勘違いしてしまいそう。ハリウッド映画だとロシア語を話すのは明らかに敵であるが、この映画ではすべてがもちろんロシア語。途中で、どちらが敵でどちらが味方か分からなくなってくる。まさにスパイの気持ちとはこんなものなのか??!
アダム・クーパーと中村勘九郎
伝統を守りながら、進化を追求するというのは至難の業なのだ。
現在東京五反田でイギリスのバレエダンサー、アダム・クーパーが「危険な関係」を公演している。会場には多くの女性が駆けつけていた。アダム・クーパーファンがたくさんいるようだが、席は3分の2くらい埋まる程度。(ヨン様人気に押されたのかしら?ヨン様もこの「危険な関係」の韓国映画に出演していた。)
アダム・クーパーは、英国ロイヤルバレエ団で熊川哲也氏と同期でプリンシパルを務めている。熊川氏と大きく違うのは、伝統バレエに対する考え方かもしれない。伝統的なバレエを重んじる熊川氏に対し、アダム・クーパーは自身の舞台を「バレエ」とよぶのを拒んでいる。伝統的な、型通りの、知っている人にしか分からない「バレエ」ではない、新しい表現方法を模索している。確かに「バレエ」を期待していくとなんだか肩すかし。バレエでは、長い手足の美しい動きを見たいと思うのに、ドレスに覆われていてよくわからない。トウシューズでくるくる回って、糸操り人形のようなピンピンと背筋の伸びた踊りを期待しているのに、この舞台では、くる!ピン!くらい。では新しい、バレエとよばないダンスは何かというと、「theatrical dance」日本語にすると演劇ダンス。ダンスでストーリーを表現していくのです。「危険な関係」の複雑な話をダンスだけで表現するのは大変難しく、実際私には、感情は伝わってくるが、はっきりとしたストーリーはみえてこなかった。アダム・クーパーにとって、基本はどう考えてもバレエであるはず。そのバレエの美しい部分を、伝統を打ち破るために排除してしまっているような気がした。
「危険な関係」を観ていて、中村勘九郎さんの平成中村座を思い出した。歌舞伎もバレエと同じように伝統があり、様々なお約束や形が決まっていて、ある一定の、分かっている人以外を排除してしまっている気がする。勘九郎さんは、そんな伝統の歌舞伎の裾野を広げ、もっと若い人にも親しんでもらおうと努力なさっていて、舞台は大きな成功を収めている。去年の夏にはニューヨークでも公演を行い海外でも絶賛を受けた。ところが、どんなに新しいことに挑戦していても、勘九郎さんは歌舞伎役者のままでいる。
アダム・クーパーにもバレエダンサーのままでいてほしい。ただ、挑戦しないで成功納めている人とは全く別の次元にいて、私は賛辞を惜しまない。
幸福*メドヴェトキン
1934年のアレクサンドル・メドヴェトキン監督作品、ロシア(ソビエト)映画「幸福」を見ました。スターリンの独裁主義下の作品とは思えない、プロパガンダ映画というよりもコメディー映画のような作品。ロシアは、チャイコフスキー、トルストイ、ボルシチだけでなく、愉快なコサックダンスの国でもあるのだ!
私はいつも初詣で、「幸せになれますように」とお願いするのですが、果たして幸福とは何なのか?貧農のフムィリは妻に「幸福を探してきて」と家から追い出される。そして幸運に拾ったお金をもって家に戻る。幸福とはお金なのかしら?
そのお金で買った馬は役に立たず、結局妻が馬の代わりに畑を耕す。(本当に馬の代わりに鍬をひいていくのだ)そして、豊作を迎える。幸福とは食料か?
ところが税金などで農作物は奪われてしまう。落胆したフムィリは自殺を図るが、「誰が死ぬのを許可した?」と軍に追われる。死ぬことも許されないなんて、幸福とは自由なのか?
集団農場に馴染めなかったフムィリだが、最後に盗人を捕まえて正義を示すことに。すると、集団農場で充実した生活をしていた妻に再び迎え入れられ、フムィリもその後は裕福に暮らすことができるようになる。
プロパガンダ映画としてみれば、幸福とは集団農場(コルホーズ)で一生懸命働き、連帯すれば幸福なのだと描いているのかもしれない。ただそれにしてもこの映画は愉快で、これを見ても、私はコルホーズに入りたいとは全く思わなかった。