ファンタスティックス・宮本亜門
ニューヨークで観た亜門演出の舞台には満足できなかった私。今度は東京で宮本亜門演出「ファンタスティックス」を観た。
ディズニーのような演出だった。人生とはこんな単純なものなのだろうか?
森山・新宿・荒木
東京オペラシティアートギャラリーで「森山 新宿 荒木」という写真展が行われている。森山大道と荒木経惟がそれぞれ新宿を撮影している。
森山大道は、陰影のはっきりしたモノクロ写真中心。アラーキーはカラーで新宿の風俗街などを撮っている。共通して撮っていたのは、ホストクラブ「愛」の看板くらいか。
2人が一緒に新宿を撮影して回っている映像も紹介されていた。お互いに「お前邪魔だよ」と言わんばかりに、交互に前へ前へ出て、進んでいくのが面白かった。そうやって、同じ場所をそれぞれどんな写真にしたのか比べようと探してみたが、そこで撮られたらしい写真は会場内にあまりなかった。
全体的に、かなり昔の写真が多かった。これまで撮りためていた新宿の写真をかき集め、展示しているようだった。森山大道も荒木経惟も、驚くような、新しい新宿の写真は提供してくれず、今までの2人の活動をみていれば予想できる、2人らしい新宿にとどまっていた。もちろん2人がもともと素晴らしいから文句は言わないが、なんだか企画倒れな気もする。
ほぼ同じ年齢の2人だからか、写真は違うが、そこにノスタルジーを感じる点で似ているとも思った。この企画にもっと若い写真家を入れても面白いのではと思った。
文旦
文旦を初めて食べた。
文旦とは高知の名産品で、冬の今頃が旬である。たまたま高知を訪れた私は、直径15センチくらいのまっ黄色な文旦が、ゴロゴロと道路脇に並べられているのを見つけた。だいたい一個が100円から200円程度。手にするとずっしりと重く、私は3玉持つのがやっとだった。見た目はグレープフルーツそっくりで、食べると、爽やかな香りが口から鼻へ上り、瑞々しく甘い。手を拭いたタオルは、その甘く酸っぱい香りをいつまでも残している。きっと明日の朝は、この文旦の香りで爽やかに目を覚ますだろう。
一期一会はどうなのか?
今日テレビで「フォレスト・ガンプ」を放送していた。映画館には観に行かないが、テレビでは楽しめた。しかし、いかんせん最後がいけない。
主人公は、あらゆる欲求、あらゆる感情、さらには愛を表現するのにも大変な時間がかかり、それが逆に人生を好転させていく。それだのに、最後で最愛の人が死ぬと、涙を流しながら、雄弁に別れを告げるのだ。死に対してだけはこんなに反応がよく、感情豊かになるのでは、今までの人生に納得がいかなくなる。彼は、どんな感情も内に秘め、表現しないことが、逆に映画の登場人物から共感を呼び人生に成功していくのだ。すなわちそれは、見ている側の共感をも呼び、じんわりと感動すら感じさせる。ところが、最後のクライマックスで、いきなり主人公の大立ち回りでお涙ちょうだいの大団円を迎えてしまう。この監督は、自信がなかったに違いない。無理くりに盛り上げなくては、感動できないと思ったのであろう。それは大失敗で、逆に引いてしまうは目に見えている。あのまま、淡々と主人公が暮らしていたらと思う。死別でわく感情にどう対処していいか分からず迷う姿を、淡々と描いてほしかった。それでこそ、我々は、彼の底知れぬ悲しみを感じることができたはずである。
This is New York*M.Sasek
60年代につくられた絵本、M.Sasek作「ジス イズ ニューヨーク」を買った。
とっても可愛い絵で、最もエレガントなパークアヴェニューでもハーレムではこんな感じ、と風刺もきかせている。この本が出来て40年以上がたっているのに、描かれているタイムズスクウェアー、グッゲンハイム美術館、デパート、教会、中華街、オフィス街(世界貿易センターがないというのも)今とほとんど変わっていないことに驚く。
日本の40年前と今とを比べると、街並はがらっと違うだろう。日本は、壊しては建てを繰り返す、おざなり即席建造物ばかり。こんなにあちこちで、常に建物が変わっていくと、街の調和もへったくれもなくなっていく。(もしくは、どんな建物とも合う、無難な建物ばかりに)ジス イズ トウキョウなんてものはないのかもしれない。
ニューヨークでは、今でも戦前の建物が売りに出され、最近のものよりも造りがしっかりしていると、値段も高価で取引されているという。これからも変わらないであろう、ジス イズ ニューヨークを羨ましく思った。